イマイチマイラーたちの中山記念

※この作品は、2009年の優駿エッセイ賞に応募し、落選したものです。つまりは駄作なので温かい目で見てやってください。

本編

 第二回中山開催は春の訪れ、第四回中山開催は秋の訪れ、そして第五回中山開催は冬の訪れ。幼い頃から中山競馬場に近い環境で育ち、父に連れられて中山競馬場へと足を運ぶことが多かった私にとって、中山競馬の開幕とは季節の移り変わりを意味していた。

 二〇〇七年の三月、第二回中山開幕週のこと。それが春の訪れを意味していたとはいえ、薄手のコートを抜けて寒さが感じられるような天候だった。メインレースは中山記念だったのだが、前年、前々年と中山記念を連覇中のバランスオブゲームの名前は、出馬表には載っていなかった。バランスオブゲームは一九九九年生まれの牡馬で、GII競走の勝利数記録という、地味な記録を塗り替えてしまった馬だ。彼は前年秋の天皇賞を前に怪我をして引退してしまったため、中山記念の三連覇という次なる記録の達成は、叶わぬ夢となってしまった。
王者バランスオブゲームは不在の中山記念だったが、出馬表を見ると代わりにローエングリンの名前があった。ローエングリンバランスオブゲームと同じ一九九九年生まれの牡馬。三歳時はバランスオブゲームと共にクラシック競走に挑み続けたが、どちらも結局は頂点を獲ることができなかった。この二頭に、ローエングリンと共にフランス遠征するなどしたテレグノシスを加えると、私の中で「イマイチマイラー」としてワンセットで扱われている三頭になる。この馬たちに、GIレースでどれだけのお金をつぎ込んだのかわからないが、幾度となく悔しい思いをさせられたものだ。
田中勝春騎手がローエングリンの前走では手綱をとっていたのだけれども、中山記念では一番人気のシャドウゲイトに乗るということで、伊藤正徳調教師はローエングリンの鞍上を後藤浩輝騎手に託した。フランス遠征時のコンビが復活する。私もそのことを意識はしていたが、老齢八歳を数えるローエングリンがここでまさかの大駆け、というのは難しいのではないかと思っていた。既に勝利からは二年程も遠ざかり、完全に過去の馬という印象だった。私の本命馬も、充実著しい一番人気の五歳馬シャドウゲイトだった。期待はしていなかったけれど、後藤浩輝騎手とローエングリンのコンビが再結成されて、もう一度目の前で見られる、それで十分だった。
 中山記念が行われる芝の一八〇〇メートルコースは、メインスタンド前からの発走で、スタート地点が間近に見える。これからGII競走が始まるというわけでもないため、私を含めた観客は眼前の輪乗りを呑気に眺めていた。重賞競走のファンファーレが場内に響き、枠入りが始まり、そしてゲートが開いた。次の刹那、ローエングリンは内枠から目の覚めるようなロケットスタートを決め、後続各馬を尻目に楽にハナを奪い去った。その鮮やかさに私も驚いたが、かつての栄光などとうに消え失せているはずの逃げ馬など、自分の本命馬のコース取りを邪魔するかもしれない存在、それくらいにしか思っていなかった。残り千メートル、第三コーナー、第四コーナーと、二番手を進むシャドウゲイトにじりじりと差を詰められ、ローエングリンのリードはほとんどなくなっていく。八歳という年齢もそうだが、斤量も五十八キロと背負わされていて、ローエングリンはさすがに一杯。最後の直線走路ではシャドウゲイトが一気に突き抜けて圧勝し、春のGII戦線で大暴れする予告となるはず、私の頭の中の筋書きではそうだった。
 ローエングリンの鞍上・後藤浩輝騎手の手綱捌きは、依然として忙しく動かしスパートを指示するものではなかった。二番手を進む本命馬に詰め寄られているというのに、加速をする場面ではないというのか。
「まだまだっ」
 勝負所は、まだここではない。もっと先だ。一時期ローエングリンの手綱をとっていた岡部幸雄元騎手、その人がディープインパクトを応援するため、テレビ中継中に思わず叫んでしまった言葉だ。それが私の脳裏をよぎる。ローエングリン後藤浩輝騎手にとっては、シャドウゲイトに詰め寄られるくらいでは勝負の始まりを意味しないというのだろうか。
 最後の直線走路でついに出た後藤浩輝騎手のゴーサインに応えたローエングリンは、追い抜こうとするシャドウゲイトを逆に突き放す。中山競馬場名物の急坂の手前で、後続を一気にちぎり捨て、完全に独走態勢。GIIなどいつでも手に届くポテンシャルを秘めた馬、ローエングリンが強かった頃の記憶が、眼前の老いたサラブレッドの姿を上書きする。馬券を買ったはずの本命馬が見えなくなった。網膜には映っていたのかもしれないが、シャドウゲイトは既に私の大脳では認識されていなかった。
 しかし現実は八歳馬、そのまま五馬身、六馬身と差を広げられるほどの力は残っていなかった。懸命に中山競馬場の坂を登る。後続馬との差も徐々に詰まり始め、後方で末脚を溜めていた、これも人気のエアシェイディダンスインザモアが一気に襲い掛かってくる。
 あと、一〇〇。残りわずか一〇〇メートル、ほんの五、六秒。その五秒間、私は彼の名を叫び続けた。
「ローエン、ローエングリン!」

 二〇〇一年秋、場所は大雨降りしきる府中競馬場。ローエングリンは、その日行われた秋の天皇賞と、たった一秒しか違わないタイムで新馬戦を圧勝した。これは確実に来年のクラシック候補の一頭だ、そう競馬ファンに思わせたことは、次走の東京スポーツ杯二歳ステークスで一番人気に支持されたことが証明している。しかし、良血の期待馬であれ、マイナー血統の星であれ、クラシックへの出走というのは難しいもので、皐月賞もダービーも抽選の末に除外で出走権を逃してしまった。
 その後も、ローエングリンGIIレースに手が届かなかった。ダービーに出られなかった悔しさを晴らすため、三歳馬では珍しく宝塚記念に出走したものの、先頭でのゴール目前で差し切られ勝機を逸した。菊花賞では大暴走の末に大失速。勝ち星を重ねて挑んだ翌年の安田記念も、勝利はその手に収まっていた。最後の最後、届かなかったのではない、勝利は手中からこぼれ落ちてしまった。目の前で逃げていく勝利への渇望というのは、逃げ馬の宿命なのかもしれない。テレグノシスと一緒に遠征したフランスのGIレースでも、現地のオークス馬にギリギリで先頭を譲ってしまった。
 もう、先頭は譲れない。そんな想いが強かったからだろうか、フランスから帰国した次のレースで、当時ローエングリンの主戦を務めていた後藤浩輝騎手は大失態を犯してしまった。秋の天皇賞シンボリクリスエスに次ぐ単勝人気を集めながら、後藤浩輝騎手は吉田豊騎手の乗るゴーステディとスタートから激しい先行争いを演じた。前半千メートルのラップタイムは五十六秒九の超ハイペース、直線で二頭とも失速し、大敗。後藤浩輝騎手はローエングリンの鞍上を降ろされた。
 一六〇〇メートルから二〇〇〇メートルでは華々しい活躍をしてきたローエングリンの成績も、その頃から徐々に下降線をたどった。ダート路線を試してみたり、後方から差す競馬を試してみたりしたが成功せず、ポテンシャルの高さをのぞかせていただけの馬は、大きな栄冠を手にすることができなかった。
ローエングリンバランスオブゲームテレグノシス、この三頭は毎年必ず安田記念で一堂に会し、さながらこの世代関東馬クラシック組の同窓会のようだった。生産牧場は社台ファーム、馬主は社台レースホース、母はフランスGI勝ち馬という血統で華やかなイメージのローエングリン。それとは対照的に、マル父・マル市で地味なイメージのバランスオブゲーム。三頭の中では唯一のGIレースの勝ち馬のテレグノシスも、父がトニービンという血統からか、東京競馬場で人気するGII大将というようなイメージとなってしまっていた。
バランスオブゲームが引退し、テレグノシスも引退し、残るはローエングリンだけになってしまっていたが、最後のイマイチマイラーはまだまだ元気だった。

 二〇〇七年中山記念の最後の五秒に、ローエングリンバランスオブゲームテレグノシス、この三頭の五年分の想いが詰まっている気がした。ローエングリンは、あいつらの分まで中山の坂を駆け上がった。伊藤正徳調教師が万全に仕上げ、バランスオブゲームが尻を叩いてロケットスタートさせて、岡部幸雄元騎手の教えが折り合いをつかせ、テレグノシスの末脚が後続を突き放し、後藤浩輝騎手の涙は振り切るためにあった。
 ローエングリンは、逃げ切った。
 休み明けのGII単勝十七倍の六番人気、ハナを奪って突き放し、そのままゴールインする姿は、バランスオブゲームが何年も続けてきた芸当そのものだった。
 中山記念のレース後の勝利騎手インタビューで、後藤浩輝騎手の目には輝くものがあり、呼応するように私の目頭も熱くなる。その熱さはきっと、私の右手に握りしめられている折れ曲がった勝馬投票券、そのせいではないだろう。
 二〇〇七年の安田記念では、前年まで必ず顔を合わせていたイマイチな馬たちの姿を見ることはできなかった。何年後かの安田記念パドックで、次は彼らの子供たちが親の情けないところを笑い合ってくれはしないか、私はそんな日を夢見ている。

反省の弁とか

個人的にも気に入っていた「あのロケットスタートは、バランスオブゲームがローエングリンのケツを叩いた」を再構成したものを投稿。最初は、気になる表現を多少手直しするくらいの覚悟で、軽い気持ちでいたら。意外と文字数足りなくて、意外と書き直したり書き足したりしたくなった部分多くて。
最終的に何が言いたいんだっけ?とか、もう一作品にかまけている時間が長くなったりだとかで、結局締め切りギリギリまであーだこーだやってました。