俺とアロマカフェと絶望へのカナシ

プロローグ的な

3月20日スプリングステークスの前日。その日、俺は朝から千葉ロッテマリーンズの開幕戦を見に西武ドームまで足を運んだ。その帰りに、新宿で40万円を銀行から降ろして封筒に入れた。木曜日に出走馬が確定した時には、スプリングステークスアロマカフェ複勝に大金を入れて100万円を超える配当金を狙おうと心に決めていた。
3月21日、今日。スプリングステークスの当日は物凄い強風が吹き荒れ、総武線武蔵野線もダイヤが大幅に乱れていた。そんな中、俺は9時を少し回るくらいの時間に中山競馬場に到着し、その日は小島太一騎手の騎乗予定があったので横断幕をパドックに設置した。中山競馬場は強風のためレースの発走を遅らせていたがスプリングステークスに影響がなければ、それで良かった。
メインレースに突っ込む金額はだいたい決まっていたので、今日は朝からそれに見合うような額として、午前中のレースでも普段の10倍くらいの金額を投じていた。何かにとり憑かれる様に馬番をマークしては、「千円」の箇所を塗りつぶす。三連単も平気で10点、20点、30点と購入する。スプリングステークスまでにちょっとくらい浮いていても、最後に的中できなければ全部無駄、スプリングステークスの購入額まで資金を増やしておかないと意味がない。ちょっと浮いたくらいでは覚悟がにぶる、プラスで帰ろうなんて考えてしまうかもしれない、そんな気の狂った考え方が頭を支配していた。
1レースの購入額は阪神9Rの但馬ステークスでピークに達し、三連単40点と馬連5点でちょうど1万円買っていた。まあ、そのレースは馬連14倍を800円買っていたから1200円だけ浮いたんだけれどもね。
メインレースが近づき、パドックアロマカフェを確認する。変にテンションが高かったりもしなかったし、大幅な馬体重の変動もない。放馬なども怖いため、本馬場入場を待つ。ついでに阪神大賞典の馬券を買おうとしたら、前のじいさんが馬券発売機からなかなか離れずに締め切られてしまった。しかし、これが逆に以降平常心を保つきっかけとなった。
(直前になって慌てないように、早めに買っておこう)

中山11R スプリングステークス

マークカードを塗る。中山、11レース、複勝、7番、10……万円。裏にワイド、3番、7番、10……万円。塗った内容を確認する。よし、間違いなし。そして、中山競馬場のメインスタンド1階の記入台に札束の入った封筒を出して、20枚の一万円札を数え、確認する。
場内の全場実況モニターで阪神大賞典のゲートが開いたのが見えた。特に大きな出遅れなどはないようだった。
馬券の発売機のもとへと歩き、厚みのある現金と丁寧に塗ったマークカードを入れ、それと引換に出てきた一枚の紙切れに書かれた内容を確認する。
中山11R、スプリングステークス複勝7番アロマカフェ 100000円、ワイド3-7 100000円。

発売窓口を離れれば、後戻りはできない。
阪神大賞典の実況音声が聞こえた。もう何が逃げているのかもわからない。
覚悟は決まっている――
俺は窓口を後にした。
阪神大賞典はどうやら最後の直線に入っていたようで、せっかくだから場内モニターで勝負の行方を見守った。ホクトスルタンが先頭だったので、
「スルタン!」
と俺はよくわからないうちに叫んでいた。馬の名前を呼ぶのっていつ以来だろう……。結局ホクトスルタンは後続に差されて5着。
さて、次はいよいよ待ちに待ったスプリングステークスの発走だ。メインスタンドから出て、大きなモニター前に陣取る。どんどん緊張してくる。そしてすることがない。
朝9時から今まではこんなに早く過ぎたのに、あと5分が長い。緊張はここがピークとばかりに、何もしていないのに呼吸が速くなった。そして、家を出てからトイレに行っていないことに気がついた。
「息が切れてきた。漏らしそう。」
そんなことをtwitterに書き込んでいるうちに、大型モニターに輪乗りの様子が映し出された。
変なファンファーレが聞こえる。そうか、今日はフジテレビ賞がどうとかでオリジナルファンファーレなんだっけ……と、恐らく生演奏しているウイナーズサークルの側を向いてみたが、視界からモニターが消えた瞬間に物凄い恐怖感が襲ってきた。
一瞬でも映像から目を切りたくない。まるで世界のすべてがそこであるように。天気も、馬場状態も、何もかもが目に入らない。聞こえるのは雑音、そして佐藤泉の実況音声だけがやけにクリアに聞こえる。
気がつけばゲート入りはすべて終わっていて、俺の意識をすり抜けるようにゲートが開いていた。録画の早回しのように見えた各馬のスタートダッシュの中で、無難にスタートを決めていたアロマカフェは中団やや後方といった位置取り。ここからアロマカフェは、7番枠という中枠にも関わらず外へ、外へ。3〜4角でも大外を回り、コーナーで完全に後方に置かれる。
最後の直線ではまだかなり前と差があったが、そこから内のサンライズプリンスを上回る脚を使ったのが見えた。
その末脚の鋭さと全身の感覚がリンクし、勝春!勝春!と声を上げ続ける身体が、浮いていくのを感じた。天使に引っ張られて空に昇る感覚とはああいったものなのだろうか。
来た。
これは来た。
完全に前にいるすべての馬をまとめて差し切る勢いだ。
勝った。
俺は勝ったのだ。
何に勝った? 競馬に勝った? 何かに勝った気でいた。それは恐らく森羅万象、俺を取り巻くありとあらゆるものに勝利した、そんな瞬間が訪れた。
しかし、それは一瞬、ほんの一瞬の恍惚だった。
前が止まらない。それどころか、大外から炸裂したアロマカフェの末脚は見る影もなく、脚色は完全に劣勢。
「勝春! 勝春!」
叫んだところで空間は、目に映る光景はねじ曲がらない。先頭グループが3頭固まって雪崩れ込むのが見え、レースは終わった。
何が勝ったのかもわからない。ローズキングダムがどうなったのかもわからない。叫びだしてからは、佐藤泉の実況音声も聞こえていなかった。
ただ、すぐ近くで「またノリかよ!」という声が聞こえた。
(あれ、横山典弘って何に乗ってたっけ? また? ああそうか、またなんだ。ってことは、あれ、ローズキングダムは負けたのかな。何着だろう。)

エピローグ的な

大型モニターでアロマカフェの6番手入線を確認した俺は、小島太一騎手の横断幕を張ったままのパドックへ足を向ける。
(あ、まだ最終レースのパドックやってるから撤去できないや……*1
当たっても外れてもアップしようと思ってたし、馬券でも撮影してtwitterに書き込んだ。予想通り「何やってんだwww」というリプライが、凄い勢いで。いいね。こんなことになっても、それを見届けてくれる人がいるってのは。
最終レースの本馬場入場を、メインスタンド内のパドック入り口横で待つことに。場内モニターを見ると、中京競馬の最終レースの発売締め切り時刻まであと何分、という表示が見えた。柱にもたれかかって、オッズを眺める。そういえば、中山の最終レースは予想してきてないんだっけ。
そのまま全身の力が抜けて、柱にもたれかかりながら尻をついて座り込んでしまった。ははっ、目の前のオッサンもやってるし、邪魔にならないところだから構わないだろう。
中京の最終レースが発走したらしく、俺からは見えない位置にあるモニターに人が群がっている。結構な数の人が何やら騎手の名前か、番号か、叫んでいるみたいだったけれど、その中で一人座って怠惰な時間を過ごしていた。
悔しさも、悲しさも、感情として認識できるほど湧き上がってこなかった。ただただ、僅か20分のエキサイトに疲れ果て、そして満足していた。
日が傾き、パドックの扉は陽が差し込むように明るかった。そこにはまだ最終レースのパドックを凝視しているであろう人だかりが見え、馬場入場はまだらしかった。
パドックから馬がいなくなれば、皆が馬場側に移動していくのが見えるだろうからそれでわかるだろう……)
それから、しばらくして中山の本馬場入場が始まったことに気がついた。何を考えていたのか覚えていなければ、寝ていたわけでもないと思う。最終に倍プッシュするとどうなるかとか、そういう心を痛める仮定ばっかりしていたのかもしれない。あるいは、死んだ子の歳を数えて「的中していたら……」なんて考えていたのかもしれない。
パドックを掃除するおばちゃんを横目に、小島太一騎手の横断幕を撤去。晴れの日は設置も撤去も楽だ。中山競馬場の正門も近いので、変に未練がましく最終レースの情報を耳に入れるナッキーモール〜船橋法典のルートはやめておいて、西船橋駅まで歩くことに。通称、オケラ街道。
オケラ街道なんて、毎年有馬記念の帰りにしか通らないもので、この季節のあの時間の太陽のまぶしさにはちょっとビックリした。

総括・感想とか。

胃は軋み胃液でまみれ、ろくに眠れず食欲もわかず、トイレに行くことも忘れて気分を高揚させるためにメインレースまで馬券を買い続け、馬券を買い終わってメインレースが始まるのを待っているだけで鼓動が速くなり息が切れる、そんな大博打がもたらす絶望と破滅に魅了されると危ないね。
上司も部下も社長もヒラも金持ちも貧乏人も関係ない、競馬とは富の平等な再分配だなんて寺山修司は言っていたけれど、ちょっと違うと思うね。富を小銭として平等に再分配してくれるが、平等には富を再分配してくれない、それが競馬だ。金持ちは競馬をやると貧乏人になるかもしれないが、貧乏人は競馬をやっても金持ちになることはない。
なるほど、ギャンブル狂いってのはこうやって醸成されていくものなのか。アローエクスプレス単勝に突っ込んだ寺山修司メジロアルダン単勝に突っ込んだ高橋源一郎、それに比べれば俺なんてまだかわいいものだけれど、負けるために馬券を買う人は確実に存在する。
一方で、マネーゲームに勝つために競馬をやっている人にとっては、俺みたいな狂人や馬券の買い方が下手くそなド養分は蔑みの対象なんだろうな、とも。確かに彼らの理屈では、俺のような人間は単に頭が悪いだけの存在に思えるんだろうけれど、別にそれを否定するつもりもないし存分に儲けたらいいと思う。だって、損をしたのに満足してる基地外がいるんだから、存分に搾り取ってやるのが礼儀ってものでしょう?
結論。負けるために馬券を買ってそれで大損こいて満足しているようなバカは一度死んだほうがいい。

*1:パドックに馬がいる場合は、馬が驚くかもしれないから横断幕の設置・撤去は禁止