認識、という無意識の判断構造

 ネットをうろうろして、挙句の果ては2ch競馬板まで覗いたり書いたりする人間にとって、「柴田騎手」という言葉は非常に異様に感じる。柴田善臣という人物の書き表し方は、「柴田善」「ヨシトミ」「大先生」というのに慣れているせいか、「柴田」という言葉から柴田善臣本人を思い浮かべるのはやや困難。
 勝春と言われれば田中勝春を思い浮かべるけれど、「田中騎手」とか書かれると一瞬誰のことか迷う。つーか、田中騎手とか柴田騎手とか書かれると、嫌がらせのようにしか思えない。悪気あんだろお前、みたいな。武といえば豊だし、コーシローといえば武幸四郎。ユタカといえば武豊だし、東の豊と書けば吉田豊
 べつに「そう書け」という主張じゃなくて、柴田騎手、田中騎手という書き方は認識までの手続きが必要だから優しくないと言いたげなだけ。先生って書いてくれた方が、本人を認識するのに早くなったこの頃。本田とか書かれても誰のことかわからない。「空気(ry」と書いてくれた方が、ああ、あの騎手のことかと思い出す。池(ry